人類がアフリカに誕生してユーラシア大陸〜アメリカ大陸にまで拡散していった約5万3千キロの行程を人力のみで辿る旅「グレートジャーニー」。
そして日本列島に人が渡ってきたと言われる足跡をたどる「新グレートジャーニー」。
そんな偉大なチャレンジを成し遂げてこられた探検家・関野吉晴さん。
今回は手作りの道具でつくった手作りの船で人力でインドネシアから石垣島までの航海である「新グレートジャーニー」の海のルートの様子を描いたドキュメンタリー映画「縄文号とパクール号の航海」の公開時に雑談インタビューさせていただいた新シリーズの第一回。
(ドキュメンタリー映画「縄文号とパクール号の航海」予告編)
探検と記録という二つの行為の難しさ、そして海のルートのプロジェクトのチームに関してなどを語っていただきました。
(文:池ノ谷英郎、山本喜昭 / 写真:池ノ谷英郎)
今日はよろしくお願いします。
関野吉晴(以下、関野)>
こちらこそ、よろしくお願いします。
山本>
この対談は雑談形式でお話をさせていただいていまして、雑談の中からその人のお人柄が垣間見えたらと思っています。
冒険家だったりアスリートだったり、一見すごいことをしている人なんだと思える人も、
実際にお会いしてみると普通の人なんだな、みたいな(笑)
関野>
植村直己さんにしても堀江謙一さん(ともに冒険家)にしても、一見すると、普通の人ですからね(笑)
山本>
みんな特別の人ではなく、自分の好きなことに突き進んでいる人なんだな、
ということを僕も感じて会社勤めを辞めて起業したんですけど、そういう風に何か一歩踏み出したいと思っている人たちに届けられたらいいなと思っています。
これまではテレビの番組という形を取ることが多かったと思いますが、
「縄文号とパクール号の航海(http://jomon-pakur.info/)」を映画にしようと思われたきっかけは何だったんですか?
関野>
テレビ番組だと伝えられないものがあるからです。
一番最初に映画として撮ったのはモンゴルだったんですね。
「プージェーhttp://puujee.info/」ってタイトルで、結構好評だったんです。
グレートジャーニーの途中で出会った少女との交流を描いた映画なんですけど、映画にするとテレビとはちょっと違う作りになるんですね。
テレビ番組は民放だとコマーシャルが入ったりするから
その間にチャンネルを変えられないように工夫するんです。
なおかつ、(視聴者は)食事をしながらだったり何かをやりながら見ていたりするんですね。
山本>
番組を見ることに集中してないってことですね。
そうです。
集中して見ている人も多いですけどね。
映画の場合は始まりから最後までだいたい全部見てもらえるから、途中ゆるいところがあってもいいんです。
ちょっと眠たくなっても最終的に何か伝えられればいいので。
その方が僕には向いているんですね。
あと、昔は写真集や新書を何冊も出したんですけど、自分で写真を選んでレイアウトして
デザイナーと相談するんだけど、最後は全部変わっちゃってますからね。
写真も変わっているし、並べ方も変わっている(笑)
写真を選ぶ時って、自分にとって思い入れのある写真とか強い写真を選んでしまうんです。
でも全体の流れ・ストーリーを作る必要があって、
「なんでこんなどうでもいい写真を入れるの?」
って思うような写真が見開きで入っていたりするんですね。
で、それを聞くと「写真もひと息入れるところが必要なんだ」
ってデザイナーは言うんです。
写真を自分だけで選んでしまうと客観的に見られなくなるので、
第三者の目線で選ぶ必要があるんです。
山本>
なるほど。
関野>
映画の場合はその点がゆったりとできるんですよ。
2回目に撮ったのが前作「僕らのカヌーができるまで」になるんですけど、船造りの映画なんですね。
今回はその船造り編を観ていない人もたくさん観ると思ってその辺もちょこっと入れているんですけど、「縄文号とパクール号の航海」がプロジェクトのメインの映画になります。
実はこれもテレビでもやっているんですよ。
でも、800時間撮ったけど番組は70分ですからね(笑)
山本>
800時間分の70分ですか…
関野>
それじゃ伝えきれないですよね。
ちなみに今の監督は2回目の航海から入ったんですけど、
彼は「映画作っていいですよね」っていう条件で参加したんです。
彼は最初にインドネシアに航海に行った時はいなかったので
そこがちょっと弱いところではありますけど。
山本>
やっぱりご自身の興味とかやりたいという思いを実現するために
進んでいくのはもちろんですけど、それを実現した後で
人々に見せる・共有することにも重点を置いていらっしゃるのですか?
関野>
記録に重点を置くことが自分にとってプラスになることもマイナスになることもあると思っています。
グレートジャーニーで海外遠征に初めて行ったアマゾンの話をしますと僕は当初、目的であったアマゾン川を下っていたんですね。
でも、僕は人間に興味があるので、行った先の先住民の住む村とかで「泊めてください」って言うんです。
さらに、ずうずうしく「食べさせてください。何でもしますから」って(笑)
そうなんですか(笑)
言葉はどうやってコミュニケーションされていたんですか?
関野>
一番最初に行った村は、大木がある奥地で先住民を雇用している材木商人に案内してもらったんですけど、彼はスペイン語が話せるし土地の先住民の言葉も話せたんです。
だから、言葉が分からないと村の人は怖がるので、言葉が分かる人と最初に行って、その人が案内人であり、言葉の先生であり、通訳でもあり、という感じで入っていくんです。
あ、その時に会った村人たちがすごかったです。
何がすごいかと言うと、彼らは目隠しされて飛行機で知らない場所に連れて行かれても、たぶんナイフ1本あればそれで弓矢を作って鳥とか獣とか魚とかを獲って食べられるし、
地面を掘れば山芋とか木に登ればヤシの実とかも採れるし、それから家もナイフ1本あれば作っちゃうんです。
小屋程度ならたぶん1時間で作っちゃうと思います。
僕もサバイバル技術を持った彼らのようになりたくて、なれば彼らの考え方や世界観が見えてくるんじゃないかと思ったりしました。
山本>
なるほど、おもしろい。
関野>
ところがね、コミュニケーションはいいんですけど、困るのは自分が何かをやっている時ですね。
見せることを考えた時、誰が記録するんだ?って(笑)
皆が行動している時、誰が行動写真を撮るかということですね。
山本>
そうですよね(笑)
関野>
例えば、アマゾンで火のおこし方とか。自分がやっていても、先住民の人たちは誰も撮ってくれないし、撮ってもらってもシャッターを押すと全然関係無いところが写っていたりね(笑)
そういう感じだから、記録と行動が一緒にできないのが悩みどころでしたね。
船造りの時もそうで、石器作りをしながら火おこしもするということで、群馬県の浅間縄文ミュージアムというところに縄文時代・旧石器時代の石器作り、火おこしを習いにクルー候補たちと行ったんですけど、クルー候補たちもそれをやりながら撮影して行こうって話になったんですね。
で、三脚を立てて動画を撮り始めたんだけど、いつの間にか石器づくりに一生懸命になっててとっくに60分が終わっちゃったんです(笑)
山本>
夢中になってて撮影を忘れちゃったんですね(笑)
関野>
行動しながら記録するのって難しいなってことになったんです。
特にアマゾンに最初に行った時や2回目に行った時はサバイバル技術を
本にしたいと思って、「山と渓谷」の別冊でムック本「ロビンソークルーソーの生活技術」(1977年)を作ったんですけど、僕はなおさら写真記録をしなければいけなくなったんです。
山本>
仕事として、ですね(笑)
彼らのようになりたいという気持ちから入れなくなっていって、記録者・観察者になっちゃったんですね。
だからその反省を踏まえて今回は、自分が船造りから航海まで専念するぞ!って
なったんですけど、資金面で写真を撮ったり雑務をやったりもしないとやっぱりダメなんですよね。
どうしてもそれに徹することができない。
だから今回は専属で記録する撮影チームを作ることになりました。
山本>
なるほど~。
関野>
だからそれ以外にも縄を作るチームとか、どんぐりクッキーや栃餅などの縄文時代にもあったような食糧を作るチームとか、あとは鉄を作るグループは砂鉄から炭を焼いて“たたら製鉄”をやって刀鍛冶とか野鍛冶に協力してもらって道具を作るとか、そうやってグループに分けながら、撮影チームもそのひとつとして作ったんです。
山本>
へぇ~総勢何人ぐらいのチームだったんですか?
関野>
集まってきたのは200人くらい。
山本>
そんなに!
関野>
でも、実行部隊は30~50人くらいで、核になっているのは15人くらいかな。
(その2につづく)
関野吉晴さんのプロフィール