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ウルトラランナー佐藤良一のスパルタスロン全記録 – 2009年, 2015年-

【2009年スパルタスロン 完走 – 親孝行 – 】 2009年9月(47歳)

 

親に自分の雄姿を見て欲しいと思ったことはないでしょうか? 僕を産んでよかった。失敗して苦労したけれど育ててよかった。早くそう思って欲しかったのです。実際に「失敗作」と母に言われたことがありました。気にしません(涙)。

 

父は僕が30歳の時に他界しています。結婚もせずに40歳も半ばになってしまい、なかなか地に脚が着かない僕を母はいつも心配してくれていました。超長距離走の世界にはまり込んでしまい、続けるために安定した専属テニスコーチから自由のきくフリーのコーチに。当然、収入は激減します。

 

財布の中にお札がないのはとてもとても不安なものです。レースが終わると僕は貧乏でした。財布の中に数百円しか入っていなかった事が何度かあります。いくつかの銀行や郵便局に口座がありました。どの口座も預金が1000円未満だからATMから引き出すことが出来ません。そんな時、比較的残高の有る銀行に行き、持っている貨幣をじゃらじゃらとATMから貯金すると、御札が一枚引き出せて小さな安心が手に入るのです。実に情けない40代でした。

 

頑張ってはいましたが、ヘルニアランナーが満足できる結果はなかなか得られませんでした。だから中途半端な長距離ランナーでいることがとても心苦しかったのです。今更、普通のサラリーマンにはなりたくないし、レッスンを増やそうにも腰が痛くて働くにも限度がありました。自分にはこれしかないのだと選んでしまった生き方です。道を間違えたのかもしれません。でも、情けない僕を救ってくれたのはランニングの世界です。だからこの世界でまだ可能性を追い求めるつもりでした。

 

24時間走という競技があります。それは24時間という時間内で走った距離を競うものです。時間での到着で、距離での到着ではありません。距離走は早く走れば早く終わりますが、時間走は頑張れば頑張るほど距離が伸びてしまいます。あまり人気のないマイナー競技です。

 

24時間走の日本代表になった仲間がいました。210kmを超せれば24時間走の日本代表に選ばれると言います。僕には魅力的な誘いでした。競い合う相手が少ないし可能かもしれない、僕はひとつの希望を持って、24時間走に出て頑張ってみようと決心したのです。

これまでの自己ベストは198kmです。休んだり歩いたりしていましたが、歩かなければ達成出来ると信じ、日の丸を目指して真剣に走り出したのです。

 

第5回お台場24時間走は、僕にとっては10回目の記念すべき24時間走でした。僕はこれまで自分で『記念』と位置付ける大会では好成績で走れていました。だから大丈夫、この時も何とか休まずに走り続けました。そして225kmを走ることができ、日本代表に選んでもらうことができました。

 

24時間走の日本代表ともなると、競技中にきちんとした管理が必要となってきます。走るペース配分、身体に入れる飲み物や食べ物の配分、トイレに行く時間の配分でした。しかし僕は期待の薄い2軍選手だったので、チームとしての手厚いサポートを受けることができません。2005年は日の丸を付けて台湾のアジア選手権とオーストリアの世界選手権を走れることになりました。24時間のサポートを母にお願いしました。

 

24時間を走り続ける事は辛いけれど、決して脚を止めることはしませんでした。惨いことに「失敗作」だったと母は言いますが、今の姿を母に見てもらい、安心してもらうために頑張りたい、それなりに納得できる成績を残したいという思いで走りました。

結果は大舞台で、僕にとって納得できるものだったと思っています。寒かった台湾アジア大会は223kmを走り7位、雷雨のオーストリア世界大会は228kmを走り19位でした。

 

2007年7月、カナダ世界大会は、日本のレベルが高くなってしまい、日本代表には選んでもらえず、オープンの部に格下げです。それでも気温が40度になってしまった灼熱のなかを走り、オープンの部で優勝することができました。各国の代表クラスと比べても13番目の好成績でした。母は24時間、僕と同じく休むことなくサポートをしてくれました。そして僕の24時間走すべてを母に見せることが出来たのです。

 

そして2009年、自信を持ってやってきたギリシャのスパルタスロンに、母を呼びました。応援バスに乗りながらの見物です。このレースの1年前には、スパルタスロンのゴールで千夏にプロポーズをして結婚していました。母の最も心配していた事が解決されていたのです。

スパルタスロンも大変過酷な大会ですが、この時も心配を掛けないように、笑顔を絶やさず走ることを心がけました。そして30時間以内で完走し、スパルタスロンでは、まあまあ格好のついた記録で走ることが出来ました。母はとても喜んでくれたし、誇りに思うとも言ってくれました。

「良一が一番心配なく応援できたよ、凄いね」

 

 

【2015年スパルタスロン 完走 – サポート記 – 】 2015年9月(53歳)

 

この夏は、チームの皆とハードな走り込みをしてきました。小田原から日本橋までの夜間走90kmを3度、10年前にスパルタのために僕が考案した、丹沢林道の登り下りのハードな50kmのコースを5度走ってきました。その中で千夏の頑張りは凄かった。どうしてもスパルタを完走するのだと言う強い意思もすでに備わってきていました。走り出したばかりの千夏がスパルタに出会って7年です。

 

これまでに14度味わってきたパルテノンからのスタートを、今回は外から見守っています。僕の今の身体ではスタートラインに並ぶことが出来ません。そのことを、スパルタに関わる多くの人たちが分かってくれていました。昨年姿のなかった僕と再びアテネで会えた事を選手たちが喜んでくれていました。4年前から不整脈が起こり出し、リタイアも4年間続けていました。ついに2014年のスパルタのスタートラインには、エントリーの権利を失い並ぶことができなくなってしまったのです。

 

8年前のスパルタで、ゴールのレオニダス前で、まだフルマラソンをたった2度しか経験していなかった妻の千夏にプロポーズをしていました。それを多くのランナーたちは知っています。その妻が8年の歳月をかけ、ついにスパルタのスタートラインに並んだことを皆が喜んでくれていました。僕もそれを誇らしく思うのです。

 

スタートを済ませると、僕たち応援隊はバスに乗り先回りをしました。最初は20km地点の第5チェックポイントです。千夏は予定通りの2時間でやってきました。いい調子です。

次に40km地点でしばらく待っていましたが、バスの出発の時間となり、千夏がやってくる前に出なければならなくなってしまいました。でも心配はしていません。きっと僕の立てた予定通りに走っているに違いないのです。

 

バスは80km地点の、最初の関門であるコリントスに向かいました。ここを9時間30分以内に通過しなければなりません。チームで最初に姿を現したのは河内くんです。全体の5番目でやって来ました。続いて竹ちゃん、梅ちゃん、林くん、もっつ、ちゃーこ、千夏、太田くんの順です。残念ながら、ここで丸ちゃんだけがタイムオーバーとなってしまいました。千夏はここまで辿りつけた感動のあまり目に涙を浮かべてやってきました。予定の30分遅れでしたが、千夏の瞳は輝きを失ってはいないように思えました。僕たちは確かめ合いました。

「ここから本当のスパルタスロンが始まるんだね」

 

100kmのゼブゴラシオンに向かいました。着いた時には、すでに河内くんと竹ちゃんは出て行った後でしたが、梅ちゃん、もっつ、林くんが順調にやってきました。

予定の時間になっても、ちゃーこ、千夏、太田くんがやって来ません。僕は村の入り口に向い、制限時間が迫る中で目を凝らしました。制限時間の4分前、薄暗くなりだした頃です。ベテランの古山さんを中心に千夏とちゃーこの姿を見つけました。僕は思わず飛び跳ねながら大手を振っていました。残る太田くんは残念ながらタイムオーバーです。

 

バスはゴールのスパルタへ向かってしまいました。

次は124㎞地点のネメアへと向かうはずでしたが、バスの中がリタイア者で満員になってしまったからです。気分が滅入るような汗の臭いが充満しています。辛くなるネメア、サンガス、ネスタニと千夏のために待っていてあげたかった。特にネスタニは8年前に、ネスタニ手前の暗闇の中で、千夏がたったひとりで僕が来るのをひたすら待っていてくれた場所だっただけに残念でした。きっと千夏もそれを期待しているはずなのです。

 

雷が鳴り出したスパルタの夜が開けると、今回チームのサポートをしに来てくれた恵子さん、三重子さん、リタイアした丸ちゃんとでタクシーを捕まえ、198km地点のテゲアに向かいました。タクシーで逆走していると最初にチームで現れたのが竹ちゃんです。全体の10番目です。続いてもっつ、日本以外のよその国の知ったランナーの姿を見つけると、心からここまで来たことを車から身を乗り出して称えました。運転手もスパルタのレースに関われていることを喜んでいる様子です。

 

テゲアに着いてからは河内くん、梅ちゃん、ちゃーこの順でやって来ました。すでに林くんは、140km地点のマレンドラニでリタイアしていたから、残された最後のひとりが千夏です。

選手の動向はインターネットから見る事ができます。それを見ると千夏は、160kmのサンガスを制限時間の34秒前に通過していました。ベテランの古山さんと一緒だから安心です。でもネスタニには僕が必ずいると思っている千夏は、落胆してしまったはずです。後で千夏から何度も僕の幻覚を見たと聞きました。

 

本格的に雨が降ってきました。街の入り口の見通しの良い場所で、千夏の被っている青い帽子を探しました。この帽子は、僕がラダックのヒマラヤを走った時に被っていた縁起がいい物です。千夏は古山さんと共にやってきました。それにしても、この雨が憎かった。千夏は雨具を着ていませんでした。制限時間の4分前、2人は50km先のスパルタへ向けて走り出しました。

 

スパルタに戻ると、ネットで千夏の動きを追ってみます。なかなか223km地点のヒーローモニュメント、第68チェックポイントの通過が表示されてきません。そして、関門時間がきてしまいました。千夏の名前はついに出てくれませんでした。僕は千夏にどんな顔をして会えばいいのか、どんな言葉を掛けてあげなければならないか悩み、部屋に篭りました。

 

そこに新たな知らせが入ります。

「千夏がチェックポイントを通過した」ということです。

もう一度ネットを開くと、確かに千夏が通過している。奇跡でした。

関門は確かに第68チェックポイントのヒーローモニュメントでしたが、そこには電気が通っていなくて計測マットは設置されていなかったのです。

ひとつ先の第69チェックポイントには農家があり、電気が来ていました。マットはそこにあったのです。

千夏は制限時間2分前に通過していました。

「千夏、凄いぞ!」

 

僕はゴールの500m手前にある、プロポーズの時に待ち合わせしたマニアテスホテル前の交差点で待つことにしました。彼女もそれを期待しながら走っているはずです。

千夏のゴール予定は3時間後です。でも僕の気持ちは直ぐそこまで来ていました。

 

時間が経ちました。

まだ姿を現しません。

制限時間が刻一刻と迫ってきます。

「ここまで頑張ってきて脚を止めるわけはない、必ずくる!」

 

僕は千夏の姿を見たら必ず泣くだろうと思っていました。

でも涙を流すことはありませんでした。

遠くに千夏の青い帽子を見つけたときは、うれし過ぎて飛び跳ねていました。

 

僕は千夏と、8年前のあの時と同じように手を繋いでゴールを目指して走り出しました。

人垣からは溢れそうな祝福を受けました。

最後の階段は160㎞もの間を共に走り、苦楽を共にしてきた古山さんと登りました。

そしてスパルタの王レオニダスの足元に触れるのです。

完走タイム35時間54分、制限時間のわずか6分前でした。

 

 

これまでのスパルタスロン全記録

 

2000 道を外れてしまい無念のリタイア。力不足。 (121km)

2001 実力ではなかった。無理やりの完走。 (35:55)

2002 実力で完走できた。やっとスパルタの仲間入りした気分。 (34:52)

2003 最悪な暑さだった。それでも完走タイムを短縮。 (34:43)

2004 30時間以内で走るなんて夢の話、欲を出しすぎて全身痙攣。(124km)

2005 無茶な走りさえしなければ余裕で完走できる。 (34:33)

2006 余裕で完走してしまった。もっと短縮できたはず。 (33:40)

2007 やることはやった。夢のベスト10を達成。 (29:25)

2008 レオニダスでプロポーズ。新たなスタート。 (31:19)

2009 僕のスパルタでの走りのすべてを、母に不安なく見せられた。 (29:44)

2010 情けない!脚の痛みと、脱水と、呼吸困難で自ら棄権。 (102km)

2011 1ヶ月前に心臓発作で緊急入院。走り込みが不足。 (80km)

2012 不整脈の不安と恐怖で恐る恐る走ったがやはり駄目。 (72km)

2013    ついに機械の入った身体です。風邪も引いていたし、もう終わりにしよう。 (45km)

2014    千夏が走った。(35:54)

2015    スパルタを離れる。でもまた走りたい。

2016    スパルタの出場する権利を獲得。みちのく津軽200km(27:56)

2017    35回記念の今年のスパルタは過剰な人気で、二人とも申し込み枠に入れず。

今年は、走ってはいけないのかもしれない。

来年は、スパルタでプロポーズしてから10年目だ。

 

(文・写真提供:佐藤良一)


ウルトラランナー 佐藤良一(さとうりょういち)