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ウルトラランナー佐藤良一のスパルタスロン全記録 – 2004〜2005年 –

【2004年スパルタスロン リタイア】 2004年9月(42歳)

2004年の時のスパルタスロン。

これまでの完走目標は36時間だった。これは制限時間でもある。途中に6箇所の関門が設定されているが、36時間で走るために、各関門の自分なりの通過時間も決まってくる。今年は満足な走り込みをしてきていたから、完走時間を30時間にしてみたら、もしかしたら高記録が出せるかもしれない。

 

ペースはこれまでよりも速い。僕を周りを取り巻くランナーの顔ぶれがこれまでと異なる。60kmまで来た時だった。まだ四分の一しか来ていないのにペースが速かったから、脱水を起こしてしまったようだ。レースの距離と時間はたっぷりあるから、復活させるチャンスや時間も何度かある。エイドで回復をさせる為に縁石に腰を下ろすことにした。沢山のランナーが目の前を通り過ぎていくのが見えていた。

 

10分ほど発ち、走り出すことにしたが、頭がぼーっとする。そしてふくらはぎが攣ってしまった。まだ脱水状態が抜けていないようだ。完走時間を32時間に修正し、関門時間を考えてみることにした。

 

コリントスの第一関門80kmが近づいてきた時だった。やはり脱水による嘔吐で、出せるものが無くなり胃液を吐いていた。腹筋が攣りそうだった。何とかコリントスに辿り着き、飲み物と食べ物を補給し、マッサージを受けながら回復するのを待った。

「よし、目標を34時間にしょう」

 

コリントスを出て直ぐに補給物を全て吐いてしまい、出るものもなくなり再び胃液を吐き続けた。道の端に暫く座り込んでいると、やがてランナーの姿がまばらになってしまった。コリントトスの関門が閉鎖されたのだ。

ゼブゴラシオンのチェックポイント100kmでも、マッサージを受けながら回復を願った。

「仕方がない、目標は35時間だ。どうやら後がなくなってしまったようだ。」

 

後一つでネメアのチェックポインント124kmに届く時のことだった。登り坂が続き、やっと平らになったところだ。両太ももの痙攣は、さっきから起きていた。そしてふくらはぎが攣る。エイドで座り込もうとしたら今度は腹筋が攣り、大騒ぎとなる。動けないでいると、ネメアから車でドクターがやってきたのだ。「このままだと心臓が攣ってしまうかもしれないから、走ることは諦めなさい」、と警告される。

 

僕は歩いて行くことにした。やがてネメアの関門時間は過ぎてしまう。草葉の陰から夏虫が、「お疲れさん」と囁いてくれていた。辛い、厳しい一日が終わったのだ。

 

 

【2005年スパルタスロン完走】 2005年9月(43歳)

2005年、今年のスパルタスロンは、昨年の30時間を目指すような事はしないつもりだ。完走することこそが尊いと思う。今年の練習量は、昨年30時間以内で完走できると勘違いしていた時と同じくらい積んできている。それでも危険な走りは懲り懲りだった。だから旅感覚で走るつもりだ。

 

慎重に、無難な走りを心がけた。10チェックポイント(CP)40km地点も4時間で通過した。無理はしていない。ランナーが僕を抜いても追わない。抜くときもじっくりとだ。

 

エーゲ海を望む55km地点で気分が悪くなり嘔吐した。今年も失敗してしまったのだろうかと心配したが、おそらく同期のスパルタランナーに勧められたロキソニンという痛み止めの薬の飲みすぎかもしれない。昨夜から、どんな痛みも感じなくするために、4時間おきにロキソニンを呑んでいた。この薬は胃粘膜を壊すから、胃を保護する薬を同時に服用していた。だが、その胃がやられてしまったらしい。早くも失敗してしまったようだ。仕方がないから歩きを入れ、慎重にコリントスを目指すことにした。しかし昨年と同じ60kmの所で脱水気味となる。見回せば皆、辛そうだった。だから僕だけではない、と思いながら走り出す。

 

80km地点のコリントスまでは、スパルタの準備運動みたいな位置づけにしなければ先が持たなくなる。苦しんでしまったが、同じように足並みと気分を共有するランナーとコリントスまで前後した。

コリントスでの時間の使い方は人それぞれになる。僕は胃を休める為にたっぷり休むことにした。

 

コリントスまでのランナーとは顔ぶれが変わり、そのランナー達と100km地点のゼブゴラシオンまで前後した。

ゼブゴラシオンで一人の日本人ランナーがビールを飲みだしたので、僕もつられてビールを飲んでみた。すっかり寛ぎモードになってしまった。こんなことでいいのだろうか、彼は妻を待つと言う。僕も急ぐ旅ではないからと、ピスタチオを摘みながら付き合うことにした。不思議と完走する自信がでてきた。なぜならビールを飲むと気が大きくなるからだ。スタッフが、リタイアするのかと尋ねてきたが、そんな積りではない。

そして2時間後、奥さんがやってきて一緒に走り出した。余裕がもてるペースだったので、周りをキョロキョロと、レースと言うより旅感覚になっていた、これでいいのだ。

 

ブドウやオリーブの畑が何処までも続き、白壁に赤レンガの家の軒先から此方に向かって手を振っている家族が見えていた。それに応えると、明るい声で「ブラボー」と返してくれた。必死に走っている殆どのランナーには、遠くから手を振りながら応援してくれている彼らの存在には気づかないだろう。下や前だけを見て走るだけがスパルタスロンではない楽しさがあることを知った。

 

夜の帳が降りる頃、山陰から黒い怪しげな雲が現れてきた。その雲の中では稲妻が走っている。スパルタスロン出始めてから初めての雨が降りだすようだ。その時がじわりじわりと近づいて来るのがよく解る。雨は、サンガスを越えてから降って欲しいと思った。

 

ネメアからは、共に走っていた夫婦と西村くんが加わり、付かず離れず、時には待ちながらサンガスを目指していた。頂に着いてみると雲は見えず、星空が広がっていた。安心した。

僕が先を走って頑張っていてもいても、次のエイドでは顔を合わせてしまう。結局、付かず離れずの夜間走だった。ネスタニを出ると、いつの間にか雲に覆われ、大粒の雨が降ってきた。縦に4人は並んで走った。

 

スタート前には、股摩れをしないようにワセリンを、たっぷり塗りこんでいた。しかし、この大雨でワセリンが流されてしまい効果が薄れつつあった。走っていれば、股の痛みは我慢できたが、一旦足を止めてしまうと、どうしようもないくらい痛くなってきた。だから補給する時も、できるだけ足を動かし続けていた。

 

ネスタニからテゲアへ。いつの間に夜は明けてはいたが、重たい雲に覆われ暗い。更に土砂降りとなり、気持ちが落ち込んでくる。そこで、まだ時間に余裕があったから皆でテゲアで雨宿りすることにそた。

いくつかのテントが張られていた。エイド用のテント、雨宿り用のテント、仮眠用のテントがあった。4人は雨宿り用のテントに非難した。僕の股摩れは余りにも痛くて心配になり、パンツの中を覗いてみた。股摩れからは、何と膿みが出ていた。こんなことは初めてだ。それを見てしまうと一歩も外へは出たくなくなってしまった。それでも走り出さなければならなかった。

 

僕は、度々パンツの位置を変えながら奇妙な歩き方をし、3人の後ろを追っていた。ゆっくり進んでいるのだが、辛いスパルタへの歩みとなってしまった。やがて雨は小降りとなり、晴れ間が覗いてきたが、膿んでしまった股摩れが癒えることは、とうとう最後までなかった。

 

残り30kmのエイド。そこでも気になって、パンツの中の具合を覗いていてみた。スタッフが心配して覗いてきた。恐怖の表情を浮かべ悲鳴を上げた。そして他の皆が覗く。女性スタッフまでもが覗いていた。皆の顔が恐怖に満ちてくる。そして救急箱の軟膏が塗られた。すると痛みがみるみる退いてくるではないか。凄い、助かった。いったいなんだったのだろうか、膿んだ股摩れは酷くなる一方だったが、痛みはゴールするまで殆ど感じなかったのだ。効果が強すぎるから心配でもあった。

 

結局、4人で最後のレオニダスにゴールのタッチをすることになった。気分は最悪だった。傷みは薄れていたが胃の中をかなり荒らしてしまったらしく、一刻も早く舞台から離れて吐きたかった。でも介護テントまで待ってくれなかった。遂に、胃液が噴出してしまった。皆が献身的に介護をしてくれていたが、痛み止めの薬を飲みすぎたせいなのだ。スタッフには申し訳ない気持ちで一杯だった。

 

これ以来、痛み止めの薬は一度も飲まなくなった。練習のときなどの薬は問題外だ。痛み止めに頼らなくてもいい練習を積んで走りたいし、服用しながら走らなければならないのなら既に失敗しているとのだと思う。スパルタスロンは必ず辛くなり、どこかを痛めてしまうのだ。それでも我慢をして前に一歩足を運ぶのがスパルタなのだと思った。ウエストポーチの中にはお守りのように痛み止めが忍ばせてある、こうしておけば、いざというときには飲めるから安心して走れる。

スパルタは、毎回新たなテーマを突きつけてくれる。来年はどんな走りをするのだろうか。

 

(文・写真提供:佐藤良一)


ウルトラランナー 佐藤良一(さとうりょういち)