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宮川竜一の「アマゾン横断プロジェクトDancing Across the Amazonに至るまで」その6

[その6「震災ジャーナリスト」]

南米大陸横断7000kmの旅

Dancing Across the Amazon

に至るまでを語った宮川竜一さんの手記の第六弾。

 

池袋でのホームレス生活の後、演劇に打ち込み始めた。

その時、東日本大震災が起こりました。

 

(本文:宮川竜一)


「36日間ホームレス体験生活」の後、僕はしばらく演劇に専念することにした。
俳優になりたいと、せっかく親に高い学費を払って通学させてもらっている芸術学部で、演劇に関係のない事ばかりしていたのでは両親にも申し訳ない。それに旅は卒業後にでだってできる。

だがそれでも、演劇における「稽古」というのは、何度も同じことを繰り返しているようでなかなか好きにはなれなかったし、やはりあのアマゾンの事を忘れた日は一日とて無かった。

このころ、僕は上温湯隆(かみおんゆたかし)という、22歳でサハラ砂漠横断中に渇死した過去の冒険者を崇拝しており、                        彼よりも早い年齢で、彼よりも大きな挑戦をして自らの命を絶つことを夢見ていた。

しかし22歳の誕生日を迎えたとき、僕はまだ何も成し遂げておらず、自分の手首に”SAHARA”とカッターで切り込みを入れることくらいしかできなかった。
このとき、僕は人生最大の挫折を味わった。
自分にとって、最高の命の果たし方を実現できないと知って、しばらく僕はショゲた。
「俺の人生はこんなハズではなか った、、、」そういう思いが僕を更に落ち込ませた。

だがこの頃同時に、生きながら上温湯隆を超えることについて考え始めた。
そして至った結論が、「彼の人生が僕に感動や影響を与えたように、僕が他の誰かに感動を与えることで彼を超える」というものだ。

それはすなわち、「行動と作品作りで、上温湯隆を超える」というものだ。
大学の4年間が過ぎ、卒業制作の芝居に集中していた僕は、その公演の最終日を境に、突然暗闇に放り投げられたような気分になった。

自分が卒業後の進路について真面目に考えていなかったことに、このとき初めて気が付いた。
周りの友人たちの多くは、引き続きアルバイトと芝居漬けの生活を送るらしい。就職活動をしていた学生も中にはいたらしいが、少数派で目立たなかったため、自分はそんなことはしていない。

卒業の日を待つだけの数週間、僕は家の中でうずくまっては、何をしていいのかわからず父親の仕事を手伝いながら、鬱々とした時間を過ごしていた。

そんなある日、揺れた。
大きく、揺れた。

僕のいる国日本は、一夜にして世界中が同情と共に大注目する国になった。
オリンピックやワールドカップとは比べものにならないほどの注目のされ方だ。

この出来事が大きなピンチであるとともに、大きなチャンスを秘めていることは、感覚的に分かった。
どんなに落ち込んでいても、「いつの日かアマゾンへ戻って、映画を撮る」ことを一度も忘れたことのなかった僕は、その頃もYouTubeを毎日見ては、どんな動画が多くの再生回数を得ているのか、色々と見ながら研究していたのだった。

世界中が、地震、津波、原発の日本にこれだけ注目しているにもかかわらず、
インターネットで見るBBCやCNNなど海外番組の映像は、ヘリコプターからのロングショットのみ。
「ズームインした映像を、海外の人は見たがっているんじゃないだろうか?」

そう考えた僕は2日後の3月13日、
勇気を出して、駅前の募金活動や買い溜めにより食べ物が消えたスーパーなどを撮影し、
レポーター役でカメラに向かって英語で喋り、編集した動画をネット上に投稿した。
そして”Panic in Tokyo”と題したこの3分の動画が、僕の人生を少し変えた。
ヨーロッパ最大のドイツのニュース雑誌社「シュピーゲル」のホームページのトップにこの動画が掲載され、さらに「震災ビデオ日記」を連載して欲しいとのオファーを頂き、シュピーゲル社と契約を交わしたのだった。

進路を見失った卒業間近の大学生は、こうして一夜にして国際的ジャーナリストになった。
その後は東京だけでなく被災地にも10回以上足を運び、取材を繰り返した。

バスで被災地へ行き、自転車で被災地を回りながら、出会った人や景色を撮影するという、アポなし取材が主だった。
多くの人の死を伴った事柄であっただけに、取材をしながら何度も自分自身の心を痛めた。
正直、自分にはジャーナリストの仕事は向いていると思った。だが、人の不幸を飯の種にしているようで、その行為を自分の中で正当化しきれず、大きなチャンスではあったが、結局僕はジャーナリストの道を志すことはしなかった。

国内外で、震災の話題が薄れていく中、僕の「震災ジャーナリスト」としての役目も終わりに近づいてきたころ、
シュピーゲル社が僕を、新しい本社ビルのオープンパーティーに招いてくれた。

それは、前回のアマゾンの旅の借金を親に全く返せていない僕が、唯一日本を脱出できるチャンスだった。
僕は急に羽が生えたような気持ちになった!

 


その1はコチラ

宮川竜一の「アマゾン横断プロジェクトDancing Across the Amazonに至るまで」その1

 

その2はコチラ

宮川竜一の「アマゾン横断プロジェクトDancing Across the Amazonに至るまで」その2

 

その3はコチラ

宮川竜一の「アマゾン横断プロジェクトDancing Across the Amazonに至るまで」その3

 

その4はコチラ

宮川竜一の「アマゾン横断プロジェクトDancing Across the Amazonに至るまで」その4

 

その5はコチラ

宮川竜一の「アマゾン横断プロジェクトDancing Across the Amazonに至るまで」その5

 

<宮川竜一プロフィール>

宮川竜一(みやかわりゅういち)